チャップリン

『殺人狂時代』を観た。改めて、ものすごい俳優だった。ヒッチコックの映画は、物語がめぐる中心になるもの、たとえば「ハリーの災難」ならハリーを殺したのは誰かという中心が明らかなようで、実は当のハリーは最後まで単なる死体、物体として存在するだけであり、結局中心は不在のまま終わる。これに対し、チャップリンのこの作品は主人公の不可解な行動に目的(中心)がみえないようでいて、最後には「殺人」という主題をめぐる彼の意思がはっきりと打ち出されて終わる。前者は中心が明らかなようで実は明らかにされず、後者は中心がわからないようで実ははっきりしている。はっきりした主張を持つ作品を作るのであれば後者が、逆に、作者の意図が主張にではなく観客の注意をチェイスにひきつけることにあるのであれば、前者が適しているのかもしれない。