マグノリア

再来週からスウェーデン大使館で通訳のボランティアをする。今日は1回目の打ち合わせ。来週は東京国際フォーラムで芸術見本市の通訳お手伝い。英語はもはや言語じゃないと言った、父の友人のフランス人を思い出した。でも、英語ばっかり勉強してるとフランス語が読めなくなる。ただでさえできないフラ語がさらにだめになってゆく。。
今日は、「マグノリア」とチャップリンの「独裁者」を観た。観ないとなあと思いつつなんとなく観そびれていた映画。「マグノリア」は人が言うほど難しい映画じゃなく、ごく単純で感動的な映画だと思った。「独裁者」は一緒に観ていた父親が懐かしんで大笑いしたり先をどんどん言っちゃったりして、そんな父親の反応が面白かった。わかりやすい悪者へのわかりやすい批判が通用した時代の作品。今、たとえばマイケル・ムーアが「華氏911」を撮っても、本国アメリカでは映画館に人は入らず、結局ブッシュは再選された。富の意味での貧富の差はもちろん問題だけれども、知識、教養の差はもっと深いところに根をはっている。大学時代にラオスにフィールドワークに行って、capacity buildingという単語を知った。途上国の開発に関して、開発を必要とする側と開発を手助けする側とが互いの知識や技術を組み合わせてプロジェクトを進め、手助けする側による一方的な開発を避けようという考え方。この考え方は決して間違っていないと思う。でも同時に、それは幻想だと思う。両者の知識と技術の差は埋めようもないほどに広がっているからだ。目に見える問題に抗議した「独裁者」の態度より、目に見えない暴力を暴きだした「殺人狂時代」の態度が必要なのだと思う。