Institutions of Modernism

T先生の授業で、Lawrence Raineyの「Institutions of Modernism」を読む。先生は歩く百科事典ならぬ考える電子辞書。授業がほんとにおもしろい。
エズラ・パウンドジェイムズ・ジョイスの作品について、小説の内容には一切触れず、出版当時の状況を細かいデータから洗い出すことでモダニズムの常識を一掃してしまった本。グリーンブラットの文章に似てると思ったら、 Rainey自身も新歴史主義の潮流に入っているとのこと。今日は第二章を担当。
二章の「Investments: Joyce's Ulysses」を暴力的に翻訳、要約するとこんなかんじ。

「1910年代、本の価格は読者にとって作品の美学的、文学的価値と同一視されるべきものであった。これは、美学の自明性、美的価値の自立性への共有された信頼の崩壊、部分的には未来派ダダイズムからの猛攻撃によって引き起こされた崩壊、あるいは芸術と商業の境界の浸食であった。社会一般の人間にとって、価格の上昇は芸術的価値の要求を正当化するものであった。」
ユリシーズ初版のマーケティングの実践は、本質的に需要と供給の独占的な市場操作であり、自由市場のそれではなく、無規制のカルテルの市場操作であった。ユリシーズの“成功”は、支配的だった美意識の規範への信頼の喪失を曖昧にすることだけに組した。」
モダニズムは、大衆としての読者ではなく、パトロン‐収集家、パトロン‐投資家の一団をこそ要求したのである。」
ユリシーズのスキャンダルは、少なくとも初版のそれは、上流の読者の明敏な判断に対する大衆文化の俗物的敵意にあるのではなかった。真のスキャンダルは、別の場所、美学的価値が投機と収集と混同され、モダニズムと商品文化が執念深い敵同士ではなく兄弟のようなライバルの関係にあるような空間にこそ横たわっている。」

(参考文献)
丸谷才一他訳、ジェイムズ・ジョイスユリシーズ1, 2, 3」集英社、1996
松平千秋訳、ホメロスオデュッセイア(上)(下)」岩波文庫、2004