劇的言語

鈴木忠志×中村雄二郎対談集「劇的言語」より。


p. 17 鈴木:テクノロジーによって人間の五感が発達したかどうかというと、逆に衰弱している面もあるわけでしょう。(略)人間の基本感覚の衰弱が、身体を伴った表現行為の衰弱を招いている。言葉が言葉の根っこをなくして記号化してしまうのも、そのためもあるわけです。人間の基本的な感覚を通じて想像世界を拡げるということと、機械文明の持つ非動物性エネルギーを駆使してイリュージョンをつくり出すということは、根本で違ったことなんですね。人間の現代は、等身大の軀が持っている想像力―同時に創造力―としての表現が非常に稀薄になっている。例えば平安時代と現代を比べてみれば、仕切りの壁や電灯のない平安時代のほうが、嗅覚とか聴覚とかの五感は異常に発達するはずですよね。季節の移り変りを感じることも、今の都会でクーラーの入ったマンションにいるのと平安時代の暮し方とではまったく違っている。闇というものの感じ方だってずいぶん違うでしょう。これは、いいわるいの問題ではなくて、事実としてあるわけだけれども、われわれの軀に備わっている全体的で本能的な感覚は、消えてしまったわけじゃない。そういう感覚と切り離せない言葉が、われわれの日常会話などでも、かなり重要な部分を占めて、まだ生きている。(略)演劇というのはそういうものと不可分な表現ジャンルですよね。ところがその点を非常に曖昧にしたのが、新劇と呼ばれる近代演劇だろう、というのが僕なんかの認識です。だから僕たちの演劇活動は、言われるような単なる「肉体の復権」ということじゃなくて、言葉のあり方というものが軀とどういうふうに密着しているのかということの洗い直しなのです。


1976年3月の対談。現在の対話じゃないことがオドロキ。このあいだ麻布でU氏と話した時、ベケットの理論から考えるとダムタイプは批判されるべきだという話が一瞬出たが、その説明を聞く時間がなかった。この鈴木氏の言葉にヒントを探すなら、ダムタイプは「機械文明の持つ非動物性エネルギーを駆使してイリュージョンをつくり出」しているに過ぎないということになるだろうか。しかし、ダムタイプはそのイリュージョンの盲点をこそ明るみにだそうとしたのではなかったか。U氏に質問のメールを送る。