イプセン

「人形の家」についてレポートを書いて提出。以下要約。
 
 小林秀雄は、イプセンについて論じた文章の中で次のように述べている。「私に言はせれば、若し彼女が幕切れで一発ズドンとやつたら名優と言ふべきである。ノラが、世の中とは男の世の中に過ぎないと気付いた事など、作者としては大した事ではなかつたらう。(小林秀雄現代日本文学全集71 小林秀雄集』筑摩書房、昭和42年、p. 175)」ここでの「一発ズドン」とは、ノラの自殺の可能性のことであって、ノラがヘルメルに向かって銃弾を放つという意味ではないだろう。シャウビューネ劇場が6月に上演した『ノラ』では、ノラが夫のヘルメルを射殺するという衝撃的な結末が話題となった。殺人ということになると、観客としては、ノラのその後の人生が心配である。自分勝手に思い込んだヘルメル像に現実のヘルメルが合致しなかったからといって、銃を発砲してしまうのはいささか早急に過ぎるという印象も拭えない。しかし、この「殺人」「銃を発砲」の部分を「家出」と読み替えると、これらの反応は、実は120年ほど前の『人形の家』初演時に生じた観客の反応とほとんど重なる。『人形の家』は、発表された当時、ノラを待ち受けているであろうその後の人生の苦難の数々を彼女が乗り越えていけるわけがないとする意見や、いやこの戯曲は男性に対する女性の勝利を描いたものだとする意見等、様々な反響を呼び起こした。このような反響からは、観客が舞台を見に迫るリアルなものとして受け止めていたことがうかがえる。結局、イプセンが描いた、あるいは描こうとしたのは女性の解放ではなく人間の解放であったという理解でこの論争は落ち着いたということになっているが、いずれにせよ、ノラの家出という結末が、女性についてあるいは近代における夫婦関係について、何らかの論争を巻き起こしそこに観客の注意を向けさせたということは事実である。しかし、現代にあっては、離婚や妻の家出は観客に衝撃を与えるには及ばないだろう。ノラが夫を撃ち殺すというシャウビューネ版の結末は、観客に衝撃を与え、現代における女性の状況について、あるいは夫婦について考えさせる。観客に与えた衝撃と現実(リアル)への問題提起という点では、シャウビューネの『ノラ』と『人形の家』初演とは円環をなしているといえる。では、『人形の家』におけるリアリズムとはどういうものか。
 「リアリズム演劇」、「リアルな演劇」といった単語から現在の東京の舞台を振り返ると、平田オリザの静かな演劇、ポツドールセミドキュメント等の舞台が思い起こされる。前者は大げさな身振りや台詞の言い回しを避け、役者がぶつぶつと台詞を言うことによってリアルな舞台を目指しているといえる。後者は、舞台上で排泄するあるいは動物を殺すといった、いわば偽りようのない現実をそのまま舞台に挿入することによって、演劇におけるリアルを追求しているといえる。つまり、これらの舞台では虚構でしかない上演をいかに現実に近づけるかという試みがおこなわれているといえる。しかし、イプセンの戯曲には、このようなプロセスとは異なる方法が見られる。それは、人物の組み合わせや筋立てが別の内容を意味するような方法、戯曲における登場人物の台詞が、発せられる台詞とは異なる次元で人物の性格や置かれた状況を明らかにしていくような方法である。『人形の家』におけるリアルとは、戯曲によって、観客にとっての現実を取り巻く不可視の状況を明らかにしようと試みる点にあるといえるのではないか。

以下、参考文献

坪内逍遥イプセン研究』大河内書店、昭和23年
中村都史子『日本のイプセン現象 1906-1916年』九州大学出版会、1997
中村吉蔵『イプセン』實業之日本社、大正3年
原千代海『イプセンの読み方』岩波書店、2001
毛利三彌『イプセンの劇的否定性 前期作品研究』白凰社、1977
毛利三彌『イプセンのリアリズム 中期問題劇の研究』白凰社、1984
毛利三彌『北欧演劇論』東海大学出版会、1980
矢崎源九郎訳『人形の家』イプセン、新潮社、2004
『岩波講座 世界文学 第六回配本』岩波書店、昭和8年
John Northam, Ibsen’s Dramatic Method, London, 1953